CARNIVAL UNDER THE MOON.

好きなものを好きというために。

(感想?) SWAN SONG  ※R18

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 ※R18作品の話です。 

 

"We wish you a Merry Christmas”
"We wish you a Merry Christmas”
"We wish you a Merry Christmas”
"And a happy New Year"
 
 有名なイングランドの民謡ですね。皆さんもどこかで聞いたことがあると思います。
 そういえばwishが使われているのは当時の農民の暮らしぶりが貧しく楽しいクリスマスを迎えるのが難しかったからと聞いたことがあります(真偽不明)。
 さて、楽しきクリスマスを迎えられなかったのは本当に中世の過去の人間だけでしょうか?
 そんなわけはありません。自分たちの世界もいつ大きく変わるかなんてのはわかりません。「海と夕焼」(三島由紀夫)においてアンリの信じていた心が消え去ってしまったように、我々の持つ物が明日もあるとは限らないのです。
 とにかく、無事なクリスマスが来るとは限らない。まあもちろん平穏な日々が続く可能性が高いのですが。
 ですがそんな平穏さを、卵をパックごとぶちまけるかのようにグチャグチャにした作品があります。
 それが「SWAN SONG」。
 スワンソングとは白鳥が臨終の際に鳴くことに由来するものです。それはとても美しい声と幻想されます。
 作品を簡単に紹介しますと、
 クリスマスイブの夜、とある豪雪地帯を大地震が襲います。街は崩れ人が死にゆく街、そしてそれを覆っていく雪。そんな中主人公、尼子司はある教会に身を寄せます。そこには六人の男女が集まりました。彼らを中心とした、極限環境下での物語です。
 はい、こんな感じの始まりになります。
 キャッチフレーズが”その時、人は絶望に試される。”なんですけど、もうこの時点でだいぶカッコイイ。もうわかると思いますが、鬱ゲーと言われる部類の物です。
 エロゲだと虚淵玄さんとか有名ですけど、自分的には彼の作品は鬱という名の豪速球を投げられているイメージなんです。
 でも、この作品は違って鬱という沼に浸り凍えながらモノクロの世界を見続けるイメージ。ただただ悲惨なものを映していく。
 
 ここからもう少し深く話していくのでネタバレ注意。
 自分は特に好きなキャラがいます。
 それは最初に教会に集まった六人のうちの一人、鍬形拓馬です。
 確かにこの作品の終盤だけ見たら彼はとても狂っている。暴力とセックスに酔った人間です。
 でもそうでしょうか彼は登場時、気が弱く、だが正義感もある人間でした。もちろんそれは自分達のような小市民的なものではありますが、無辜の人でした。社会的な拘束がないことをいいことに好き勝手にやる人たちに怒りを覚える。そんな普通の人です。
 しかし彼は地震後の秩序の崩壊したホップズ的な闘争を前にして少しずつ変わっていきます。それは彼が嫌った崩壊した社会を前にして好き勝手に振る舞う人々と何も変わらない。ミイラ捕りがミイラになるというものです。彼はもとの彼のまま変わってしまう。
 対してこの作品において終始変わらない人間がいます。
 それは尼子司、佐々木柚香、八坂あろえです。
 佐々木柚香はとっくに絶望していました。なので大災害を前にしてもそれによって変わっていしまった人を見ても変わりませんでした。彼女及び八坂あろえは語ると長くなるので詳しくはプレイしてください。
 そしてもう一人、尼子司です。彼は変わりません。大災害を前にしても、狂った人々を前にしても、何故なら彼はとっくに絶望を乗り越えようとしていたからです。まず一つきっと絶望というのは乗り越えれないものなんです。その壁は高くて高くてただ存在するのみです。なのでそれはきっと真理とも神ともいえるのです。
 彼はとっくに絶望を経験していました。でも彼は絶望しませんでした。絶望とは理不尽なもので何もしていなくても地震のようにポンと起こります。それに対し自らが間違ったことをしていないのだからいずれ絶望を乗り越える。そんな考えをしているのです。ある意味で彼は狂っているのです、そしてその在り方は完成しているのです。
 対して鍬形はどうでしょうか彼はただの人でした。だから彼は変わりました。きっとプレイヤーの多くは彼を嫌悪します。何故なら彼のその醜悪さは我々が明日陥るかもしれないからです。そして我々は司の精神性に共感できません。だってそれはあまりに達観としていてもはや共有できるものではないからです。だから鍬形は司との決裂は深いところまで行ってしまいます。そして結ばれたはずの柚香と司の思いは同じところにありません。
 決して強くない我々は絶望を前にしてその弱さによって鍬形のようになるでしょう。もしくは絶望に浸って柚香のようになるでしょう。きっと彼のような地点にはたどり着けない。そう絶望に試された人間の末路はきっとこのように醜いものだろう。でも美しくありたいと、その願いこそがswansongのようなのでしょう。
 
 

 

(感想)『TYPE-MOONの軌跡』

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 さて、発売から一月くらいたったし個人的な感想をまとめておこうと思います。

 

 まあ最初に言ってしまうと、本の中身はほとんど知っていることでした(まあ九割五分くらい)。

 なので、世に言う古参的な人々は買う価値は無いのか?

 いや、そんなことは無い。自分はそう言いたい。

 自論で恐縮なんですけど、TYPE-MOONファン、奈須きのこファンって彼らの好きな物、影響を受けた物を接種したがる人種だと思っているんです。

 竹箒日記の影響で瀬戸口作品に触れロミオ作品に触れめてお作品に触れる。そんなエロゲーマーがいてもいいじゃない。他にも菊池伝奇山風伝奇あと叙述ミステリーとかに触れる。そういった人種が多いと勝手に思っているんですけど。

 そういう人たちって、重箱の隅を突くようにTYPE-MOONのことを知りたいと思うんですよ。もうどうでもいいようなことまで知りたいような人たち。そしてそのためには今までだったら過去のインタビューや竹箒日記を見返したりする必要があった。でも本書があれば、全部とはいきませんがかなり影響を受けた作品も挙げられていますし、多くの出来事も書かれています。

 そういった意味で作品単体ではなく集団としてのTYPE-MOONを語るときに必要な最低限の知識をフラットに持っておける。そういった意味で重要な一冊なんじゃないかなと思いますね。

 

 個人的に好きだった個所はTYPE-MOON結成までの部分ですね。いままでの断片的な情報がまとめられていると思います。また「空の境界」が20部刷って6部しか捌けなかったとか、今考えるとありえない話ですがやはり注目を集めるということの難しさを表してるようで興味深いですね。

 そして武内崇先生の影響はでかいね。ただいいものを創る才能だけでなく、それをプロデュースする才能。車の両輪のようにどちらが欠けても意味がないのですね。

 それにしても学生時代にそこまで才を感じさせる、感じれる両名はいったいどんな学生生活だったのか。そんな重箱の隅まで気になってしまう。それがTYPE-MOON

「英霊剣豪七番勝負」は「魔界転生」のパクリなのか?

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 ※ネタバレ注意

 いつかは書かねばなるまいと思っているのではやいうちに書くことにした。

 結局認めるかどうかは個人次第なところがあるので、自分もあくまで個人の感想として書いていきます。

 まず、自分は「魔界転生」も「英霊剣豪七番勝負」も好きです。

 また結論だけ先に言ってしまうならばパクリでは無い。だが明確なオマージュでありこれを嫌う人が一定数いるのも理解できる。

 

 今回、パクリかどうかを考えるうえで三つの基準を設けることにする。

 ①文章の剽窃等があるか?

 ②「魔界転生」のことを知られて困るか?

 ③「魔界転生」にはないオリジナル部分に面白さはあるか?

 以上の三点を考えていきたい。

 

 ①文章の剽窃等があるか?

 特に見受けられない。

 この要素は著作物を守っていくうえで重要な要素で、最も客観的に判断できる部分である。法律的にもここら辺を犯していると危うい。

 一部、想起させるセリフ等はあってもまるまる持ってきたとかそういった物は無いように思える。

 

 ②「魔界転生」のことを知られて困るか?

 別に困らない(本来は)。

 元ネタがバレて困るのがパクリとネットでは言われることが多いが、今回の「英霊剣豪七番勝負」は明らかに「魔界転生」を意識してオマージュしている。それは多くの要素を「魔界転生」に似せていることからあきらかではないだろうか。もちろんその結果箇条書きマジックでは多くの類似箇所が掘り出されたが、それはそうだ、だってわざと似せているんだもの。

 本来「魔界転生」を知らずとも楽しめ、知っているとニヤリとなる。そういった構成なのだ。

 そもそも、Fateが「魔界転生」の影響を受けて生まれたのは、多くのインタビュー等で奈須きのこ氏が述べており、ファンの間では常識と言ってもいいほどであった。そんな中FGOにおいて「英霊剣豪七番勝負」という日本が舞台で宮本武蔵がパートナーであるシナリオにおいて「魔界転生」ネタを入れてくるであろうことを予想していた人は多かったはずである(ここまで、ガッツリ入れてくると思った人は少ないだろうが)。そんな中ニコニコ生放送宝蔵院胤栄の登場が発表されるとより一層その期待は高まったのではないだろうか。

 そもそもパクリなのだとしたら日本を舞台にせず、登場人物も全て変えてしまえばいいのである。それをせずに真っ向から挑んだのは逆に評価すべきではないだろうか。

 

 ③「魔界転生」にはないオリジナル部分に面白さはあるか?

 ある(少なくとも自分はそう思う)。

 この基準は実はとても難しい。何故なら面白さというのは主観的な話で、読者全員がおなじ面白さを持つわけでは無いのだ。

 なので、「魔界転生」にはない部分をピックアップしその部分は面白さに帰依するかどうかを考えたい。

 全部だすときりがないので二つほど上げさせていきたい。

 最後の宮本武蔵VS佐々木小次郎、そして千子村正の存在だ。

 まず宮本武蔵VS佐々木小次郎だがもちろん「魔界転生」には存在しない。燃え盛る城での対決というシチュエーションの事ばかり話題に出す人もいるがここにおける本質は別のところにある。

 佐々木小次郎Fate/stay nightにおいてアサシンのサーヴァントとして召喚される。だが彼は佐々木小次郎という人物のモデルになった人物であり、攻勢に伝わる佐々木小次郎とイコールではない。そして彼は宮本武蔵と戦ってはいないのだ。だが「英霊剣豪七番勝負」においては妖術師の護衛として登場するのだが最後、妖術師が敗れた後に出てきて武蔵との決闘を行う。

 元凶たる妖術師を倒し勝負の結果が決まったところで出てくる。この決闘の勝敗など趨勢には影響しない、無意味な闘いに見える。だがそうではない宮本武蔵佐々木小次郎の決闘というのはもうそれだけで運命なのである。それは老武蔵の独白からもよくわかる。大きな戦いの後、個人と個人の運命を賭けた闘いが行われる。それはHFにおける士郎と言峰の闘い、もしくは冠位時間神殿における主人公とゲーティアの闘いに通ずるものがある。まさにFateの醍醐味ともいえる重要なものである。

 ここまで言えばわかるだろうがまさにこれは「魔界転生」ではなくFateにあるものである。

 そして千子村正の存在である。

 いやまて「魔界転生」にも鍛冶師の村正は出てくるだろうと言う人もいるかもしれない。確かにそうなのだが「英霊剣豪七番勝負」においては少々違う点がある。

 そう疑似鯖である。かれはFate/stay nightの主人公衛宮士郎の身体で限界する。

 また彼は実際に最後まで主人公たちとともに城の中にまでついてくるのだ。ただ鍛冶師のロールをするだけではない。前作主人公が助けに来るという構図に近いものがある。そしてそれはFateだからこそ彼が出てきた意味があるのだ。彼の物語はSNで終わり、その次の世代にバトンを手渡すかのように登場し、活躍して去っていく。

 長々と書いたがこれ以外にも異なる点は多くある。そしてこれらが全く「英霊剣豪七番勝負」の面白さにかかわりがないとは言えないのではないだろうか。もちろん全く面白くなかったという人はいるかもしれないが、少なくともこれをかいたシナリオライターは面白くしようとしたのは間違いないのではないだろうか。

 

 さて多くの事を書きなぐったがどうだったであろうか。

 まあ自分の意見としてはパクリでは無くオマージュだということだが。

 読み終わった時から自分は一部の人間だけは「英霊剣豪七番勝負」をパクリ呼ばわりできると思ってる。

 それは「魔界転生」の重度のファンの人で「こんなのをオマージュだとは認めない劣化物だ、パクリだ!」という意見の人たちである。

 自分はそういった自分の好きなものを誇りに思いこじらせたオタク的思考は大好きなのでそういった人たちの叫びはぜひぜひ聞いてみたい。

 だが、とにかく騒ぎたいような奴らや、そもそもパクリやオマージュの違いも考えられないような輩の言葉には微塵も耳を傾けたくない、そう思うのだった。