CARNIVAL UNDER THE MOON.

好きなものを好きというために。

汚らしい世界

 青々とした空の下、ボクは怖いおじさんたちにせかされながら歩く。
 黒い服を着た彼らの表情はこわばってとても笑顔になれそうじゃなかった。
 こんな明るい日に損だなぁと思うけれど、ボクも彼らにつられ神妙な顔をしてしまう。
 ボクも彼らも似たようなものだなぁ。
 僕はそのまま車の中に押し込められてしまった。
 ふかふかの座席で座り心地はよかった。
 よかったのだけれどなんだか嫌なにおいがしてあまり好きにはなれない。
 これ、消臭剤とかないの?

「チッ、におってんのはお前だよ」

 運転席の男の人が苛立たしげにボクに言う。
 そういえばボクの服は汚れてしまっていたな。
 腕も血なんかでとても汚れてしまっている。
 何で汚れてしまったのかはよくわからないけれどべちゃべちゃして気持ちの悪いことは確かだ。
 まずシャワーとか浴びれないかな?

「おまえはまず着替えからだ」

 まあ、それなら安心かな?
 ボクは自分の意見が100%通ると思っているような傲慢な人間ではないんだ。
 妥協点でいいとしよう。
 そんな思索を重ねていると車はとっくに目的地へ到着したようでボクはおろされてしまったよ。
 ないと思っていたけれどシャワーも浴びれて、しかも出てくるころには着替えまで用意されていて至れり尽くせりというやつだろう。
 それが終わるとまた黒い服の人に先をせかされた。
 廊下を歩くと何人もの人とすれ違った。
 みんな背筋がピンとしてハキハキとあるいている。
 そんな人たちを見ているとなぜだか途端に恥ずかしくなってしまうよ。
 そうしているとどうも一つの部屋に通された。
 その中には一人の女性がいて、ボクを連れてきた男の人は一礼すると帰って行ってしまった。
 扉の閉じた薄暗い部屋の中でボクは女性と二人きりになってしまった。

「こんにちは。まず、いきなりで悪いけれど、君がなんでここに呼ばれたのか……わかっているのかしら?」

 うーん、人を殺してしまったからですか?

「……人、殺してしまったの?」

 ええ、どうなんでしょう。
 ボクって記憶力があまりよくないから。
 殺したような、殺してないような。

「そう……」

 彼女は少し考えたように黙ってしまう。
 もしかして怒らしてしまったのだろうか?
 いやだな。
 あとどれくらい彼女とこの部屋にいることになるかわからないけれどせっかくなら気持ちよくしていた方がいいに決まっている。
 なので彼女になんと声をかけようか迷っていたのだけれど。

「できれば、そのことについて詳しく教えてくれないかしら」

 彼女は何もなかったかのように話し出した。
 怒っていたんじゃなくてよかった。

「ええ怒ってなんかいないわ」

 そうかそうか、よく兄さんとかに物分かりが悪いって怒られてたから自信なくて。

「お兄さん?」

 ええボクには6つ上の兄がいるんです。
 ええと……。
 ああ、でも最近会ってない気がするなぁ。
 うーん特徴とかも忘れちゃっているみたいだ。

「そう……でも無理に思い出さなくていいわ。まずは一つ一つ、私に教えてちょうだい」

 そういえばボクが殺した、殺してないって話でしたっけ。
 うーん、ボクだって道徳や良心というものがあるので殺してないとは思いますけど。
 例えば、ナイフをもってぐちゃぐちゃめった刺しにする光景とか脳裏にすぐに浮かんできます。
 まるで本当にあったことのようなことのような気がします。
 いや、もしかしたら、本当にあったことなのかもしれませんね。
 だとしたら被害者には申し訳ないなぁ。
 ああ、そういえば最近、兄さんに会ってないけど、もしかしてボクが殺してしまったのかなぁ。
 悪いことしたなぁ。
 べつに喧嘩とかはしますけど普通の兄弟だったのに。
 いまボクのこころのどこを探しても兄に対する殺意なんてひとかけらもありませんよ。
 あっ、勘違いしないでいただきたいのは別にボクが兄を殺してしまったことを許してほしいとか、責任能力がないとかじゃないんです。
 ただただ、不思議だなぁと思っただけです。

「落ち着いて。大丈夫、あなたはお兄さんを殺してなんかいないわ」

 そうですか、それはよかった。
 落ち着いてボクは椅子に深く座る。

「なるほど、誰かを殺したような気もするし、でも自分は殺すわけはないと思っている。ということでいいかした」

 コクリと頷く。

「なるほど、他になにか気になるようなところはあるかしら」

 そうだな、ボクって結局なんで貴方と話しているのですか?

「それは……今はあまり気にしなくていいわ。ただあなたのことを聞かせてちょうだい」

 それは、答えになっていないんじゃないかなぁと思うけれどボクの目の前の女性はボクより賢そうだし、彼女の言うことに従っておいた方が良い気がするよ。
 じゃあ、ボクって記憶力が悪いですけどこれって病気なんでしょうか?
 もし病気ならボクのもの覚えの悪さはボクのせいじゃないってことになって気が楽になると思うんです。
 まあ元から気楽な人間なんですけど、重い気分でいるよりは万倍マシなんじゃないかと思います。

「あなたが、病気かどうか……そうね、あなたの記憶という点においては何とも言えないわね」

 もしかして1か0かどっちともいえないというヤツでしょうか。
 本当は細かい状態が複雑に混じり合っていて病気か正常かなんて言うのは本当は判断できないみたいな。

「難しいことを知っているのね、でも違うわ。そうね普通の人と比べるには前提条件が違い過ぎるから」

 えーと、つまりボクはなにかおかしいということなんですか?

「おかしい、というのとは違うかしら。まあ平均というものを取っていったときにあなたは多くの面で振れ幅が大きいのよ」

 難しいですね。
 この社会は多様性を認めていくものだって昔Tvでやってましたけど。

「そうね、結局、認められる多様性を認めるってだけだから。そうじゃないものは異常のレッテルをはって遠ざけるのよ」

 そうですか、ボクはつまるところ遠ざけられているのですね。

「……そうね、でも真ん中より外側の方が気楽だったりするわよ」

 それは良いですね。
 ボクは気楽なものは好きだなぁ。

「さて、少し話を戻しましょうか」

 ボクは誰かを殺してしまったんですね。

「……」

 急に声を出したからか女性は驚いてしまったよ。
 もう少し慎重に切り出すべきだったかな。
 でもボクまわりくどいのって苦手なんだ。
 
「……」

 そうじゃないんですか?

「……、いいえ違います。あなたは誰も殺してませんよ」


 あなたは誰も殺していないのです。
 そう彼女はいった。

「もう一度言います。あなたは誰も殺してなんかいません」

 そういわれたら普通は喜ぶんだろうけど、僕の心は静謐なままだった。
 そうなのですか、としか言えなかった。

「はい、あなたはここが何処かわかりますか」

 警察署とかじゃないんですか?

「違います。なぜあなたはそう思ったのですか」

 無機質な質問ばかりで身体がかゆくなってくるよ。
 どうして思ったかなんてそんなの……、どうしてなんだろうね。

「バイアスがかかっていたということじゃないですか?」

 バイアス?
 思考が偏っているとか、そういう?

「ええ、ただしそんな小さなものではなく、あなたの感じ方それ自体を大きく変えてしまうほどの」

 よくわかりませんね。

「そうですか、ではさらにもう一つ。あなたをここに連れてきたのは誰ですか?」

 黒い服の人でした。
 警察官だと思ったんですが。

「それも違います。あなたをここに連れてきたのはあなたのお兄さんですよ」

 兄ですか……?
 そりゃあ、顔も覚えていませんけど、兄じゃないのは判りますよ。
 
「それがおかしいとは思いませんか? さすがに自分の兄の顔を忘れるなんてありえないでしょう?」

 そういわれるとそんな気がするよ。
 
「さらに、実はあなたと私はもう何度もこうして会ってますよ」

 もうわけがわからなくて気が狂ってしまいそうだった。
 心のざわめきが体中に広がってチクチクと痛みともかゆみとも取れるものにおおわれるようだった。
 どういうことですか、声はかすれていたように思う。

「あなたは、誰かを殺して、警官にここまで連れてこられ、私から尋問されていると思っている?」

 ええ、だってそうでしょう。
 だって……。

「でも現実はあなたは、誰も殺していないし、警官なんていないし、私は尋問なんてしていない」

 それはないでしょう。
 じゃあいまあなたは何をしているっていうんです?

「治療よ」

 一体何の?
 ボクはいたって健康で悪いところなんて一つもありませんよ。

「あなたの心です」

 心?
 それはおかしいですよ。
 心がおかしいって、それ猫の忍者とかピンクの羽の生えた象が見えるとかそういうヤツでしょう。

「それだけではありませんよ。あなたのように現実を捻じ曲げて見ているのはもう立派な症状です」

 いや、でもボクはさっき人を殺したんだと思います。
 そういえば、腕だって血に濡れていましたよ。
 たぶん返り血だと思うんだけどなぁ。

「それはあなたの血ですよ。ほらあなたの腕を見てみなさい」

 腕を見ると血にそまっていた。
 おかしいな、さっきシャワーで流したはずだけど。

「それ、今あなたが自分でひっかいてつけた傷から出てるものです。ここに来る前もそうやって血に濡れてたんです。ほら腕中血だらけでしょう?」

 そういわれてみるとボクの腕は傷だらけだった。

「貴方はよく意識が飛ぶんです。その間、自分で糞尿をかぶったり体中ひっかいて血まみれになったり。ほら腕以外も傷だらけですよ」

 そういえばボクは臭くてシャワーをあびたんだった。
 糞尿を被るなんて頭がおかしい人みたいだなあ。

「いいですか、あなたはあらゆることを自分の中の先に決まった答えに合わせて認識を変えるんです。そう例えば今回も、いつもの通院が、殺人を行って捕まって連行される。そういう認識しかできないんです。だからお兄さんのこともしっかり認識できず。私と会ったことも忘れているんです」

 そうだったのか。
 血まみれの腕をさすりながら言葉を受け止める。
 でも、ボクが狂ってるんでしょうか?

「先ほども言った通りあなたが平均的な認識からずれているのは確かよ」

 なるほど、でもね、その話を聞いてもボクは兄の顔も、あなたと話した記憶も思い出せませんよ。
 こういうのって本当のことを聞いたらすべて元の認識に戻るものじゃないんですか?

「そうですね、あなたの認識が他の人間と違うだけで間違っているかどうかではないですから治らないということもあるのです」

 そうですか。
 でも、これは治療なのですよね?

「ええ、でも毎回、ここから進展しません」

 そうなのですか。
 いつもボクはこうなのですか?

「そうですね、いつも」

 先ほどからの会話でさすがに疲れてきてしまったよ。
 ボクの座っている、椅子には背もたれが無くて、変えてもらいたいとも思う。

「つかれてきましたか?」

 ええ、まあ。

「そうですか、でももうすぐお兄さんが来ますよ」

 もう終わりですか?

「ええ、また明日には今日のことを忘れているか他の出来事に変換してしまっているでしょうね」

 じゃあお別れですね。

「ええ、またあえたらいいですね」

 ボクは覚えていないけどあなたは覚えているでしょう?

「記憶の連続性のないあなたとまた会っても、同じ人とは言えないでしょう」

 そういわれるとそんな気がしますね。

「ええ、じゃぁ」

 そういって彼女は手を上げた。
 ボクもまねて手をあげ返した。
 部屋から出ると黒い服の人が待っていた。
 ボクには彼が兄だとは認識できなかった。
 ボクは狂っているけれど、皆が狂っていないとなぜ言えるのだろう。
 例えばボクの感じる痛みと、隣の兄の感じる痛みが同じだとなぜ言えるのだろう。
 今度、あの女の人に聞いてみよう。
 ああ、でも次会う時には覚えていないのかな?